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 地域資源紹介

奉納所の招福猫児
奉納所の招福猫児

豪徳寺(井伊直弼墓)

■指定されている場所: 世田谷区

大谿山(だいけいざん)豪徳寺は、世田谷区にある曹洞宗の寺院です。彦根藩主・井伊家の江戸における菩提寺で、井伊家ゆかりの文化財が数多く所蔵されています。



豪徳寺の歴史

1480(文明12)年、世田谷城主の吉良政忠(きら まさただ)は、伯母の菩提(ぼだい)をとむらうために世田谷城内に小庵を設け、伯母の法号にちなんで弘徳院(こうとくいん)と名付けました。

梵鐘
梵鐘

これが豪徳寺の前身です。1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏は滅亡。家臣である吉良氏は上総国生実(現在の千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となります。

三重塔
三重塔

1633(寛永10)年、世田谷周辺は彦根藩の領地(彦根藩世田谷領)となります。第2 代藩主・井伊直孝(いい なおたか)は、荒廃していた弘徳院を整備しました。1659(万治2)年、直孝が没すると、直孝の法号にちなみ、寺は「豪徳寺」と名付けられます。その後、直孝の長女・亀姫(掃雲院)は、寺に仏殿梵鐘(ぼんしょう)を寄進し、豪徳寺は井伊家の菩提寺にふさわしい偉容を整えました。今日、豪徳寺仏殿および梵鐘は、世田谷区の有形文化財に指定されています。ちなみに、世田谷城跡は、1940(昭和15)年、世田谷城阯公園として整備されました。

 

彦根藩主井伊家墓所

豪徳寺の彦根藩主井伊家墓所には2代直孝をはじめとする6 人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、その子息子女、そして江戸で亡くなった藩士達が埋葬されています。

彦根藩主井伊家墓所
彦根藩主井伊家墓所

桜田門外の変で暗殺された13 代藩主・井伊直弼(いい なおすけ)の墓もあります。彦根藩主井伊家墓所は都内でも屈指の大名墓であり、国指定史跡となっています。豪徳寺には他にも貴重な建造物が多数あります。社務所(しゃむしょ)の玄関は、佐倉藩堀田家の大名屋敷の玄関を移築したもの。赤門(せきもん)は、井伊家の上屋敷の長屋門を移築したものと伝えられています。

 

井伊直孝と招き猫伝説

井伊直孝と豪徳寺のつながりは、一匹の猫から始まりました。直孝がある日、鷹狩りの帰りに荒れ寺の前を通ると、お寺の飼い猫が手招きをしていました。その白猫に導かれて中へ入った直後、雷鳴がとどろき夕立が降り出します。直孝は猫のお陰で雷雨を避けられることができて、さらに寺の和尚の法話を聞いて帰りました。これがきっかけとなり、弘徳院(後の豪徳寺)は井伊家の菩提寺となりました。和尚は飼い猫が亡くなると墓を建て、後にこの猫にあやかって猫が手招きをする像が作られ、招き猫となったといわれています。豪徳寺は別名、「招き猫のお寺」として親しまれています(招き猫の由来に関しては他にも諸説あります)。豪徳寺では招き猫のことを「招福猫児(まねきねこ)」と呼んでいます(豪徳寺の招き猫は小判を持たないのが特徴です)。寺内の招福殿(しょうふくでん)には、招福観音が祀(まつ)られています。人々は願い事をがかなうと、招福堂横の奉納所に招き猫を奉納します。ずらりと招き猫が並んだその光景は、人気のフォトスポットとなっています。ちなみに、井伊家の城下町・彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」は、豪徳寺の招き猫にあやかってデザインされました。また、東急電鉄と豪徳寺のコラボにより、豪徳寺の招き猫のデザインをラッピングした「幸福の招き猫電車」が世田谷線を運行しており、人気を博しています。

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