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 地域資源紹介

旧東海道の町並み
旧東海道の町並み

旧東海道品川宿周辺のまちなみ

■指定されている場所: 品川区

東海道五十三次の第一の宿である品川宿は、江戸時代には宿場町として繁栄しました。品川宿周辺以外の地域では、大規模な開発や都市化が進んでいますが、この旧東海道沿いは、江戸時代と同じ横町や路地、間口の狭い短冊(たんざく)状の地割りが残っており、江戸のまちなみの風情が色濃く残っています。また由緒ある神社仏閣が周辺に数多く建ち、これら全てが、貴重な歴史的遺産となっています。
 

品川宿の歴史

品川は、古くは漁業や海運で栄えた町で、廻船問屋や海産物の問屋が集中していました。徳川家康が東海道を整備し、品川を東海道五十三次の第一の宿と定めたため、陸海両方の江戸の玄関口となります。

土蔵相模跡の説明板
土蔵相模跡の説明板

1635 年(寛永12)年に発布された武家諸法度は、大名に対して参勤交代を義務付けました。品川宿は東海道の宿場中、最も江戸に近かったため、大名達はかならず品川で休み、身だしなみを整えてから江戸に入りました。そのため、品川宿の街道沿いは多数の旅籠や茶屋が並びました。現在も、品川宿時代にまつわる歴史的な建造物や様々な史跡が点在しています。

 

 

品川宿周辺の旧跡

 

問答河岸跡
問答河岸跡

「土蔵相模(どぞうさがみ)」は、北品川にあった大きな旅籠(はたご)です。ナマコ壁だったために「土蔵」という名が付きました。幕末には志士達が出入りし、高杉晋作、伊藤博文らが密儀を行ったと伝えられています。

品川浦船だまり
品川浦船だまり

また、桜田門外の変を起こす前日に水戸藩を脱藩した志士達がここで最後の宴を開きました。品川浦船(ふな)だまりは、現在も屋形船、釣り船が舳先を並べています。利田神社(かがたじんじゃ)は、旧目黒川の河口にできた砂洲にありました。境内には鯨塚があり、品川沖に迷い込み江戸の人々を驚かせた「寛政の鯨」(体長約17m)の骨が埋められています。

品川本陣跡
品川本陣跡

問答河岸(もんどうがし)とは、北品川の海岸にあった波止場(はとば)のことです。第3代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、たくあん漬けの考案者として有名な沢庵(たくあん)和尚が、この付近まで出迎えて、将軍と禅問答(ぜんもんどう)をしたのが名前の由来です。品川宿の「本陣(ほんじん)」は、品川宿の中で最も大きく重要な宿で、全国の大名や朝廷の勅使(ちょくし)が休息、宿泊しました。 現在、その跡地は「聖蹟公園(せいせきこうえん)」となっています。青物(あおもの)横町は、江戸時代に農民が野菜(青物)を持ち寄って市場を開いたことに由来します。この通りには、新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)の定宿だった「釡屋跡」の説明板も置かれています。

青物横丁の説明板
青物横丁の説明板

品川寺 (ほんせんじ)は、品川区内で最も古い寺です。鐘楼(しょうろう)にある大梵鐘(だいぼんしょう)は、「洋行帰りの鐘」と呼ばれています。この鐘は、1867(慶応3)年のパリ万国博覧会に出品されましたが、その後、行方不明となりました。しかし、スイスのジュネーヴで発見されて、1930(昭和5)年に里帰りを果たしたというエピソードがあります。品川宿周辺は、上記以外にも史跡が数多く存在し、歴史好きには興味の尽きない地域です。

 

 

旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会

品川宿交流館 本宿お休み処
品川宿交流館 本宿お休み処

東海道の歴史性を活かしたまちづくりを目指して、1988(昭和63)年、品川宿周辺の町会、商店街、商店会が協力し、「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が設立されました。1995(平成7)年には同協議会が主体となって「東海道品川宿周辺まちづくり計画書」を策定し、景観アドバイザーの業務も開始しました。石畳舗装電線類地中化に加え、街路灯整備店舗ファサート整備も行っています。また2009(平成21)年、北品川商店街には、まちづくりの新たな拠点として「品川宿交流館 本宿お休み処」がオープンし、品川宿の情報発信の場となっています。さらには、これからの品川を支える子供達に「まちあるき」を体験してもらうという「しながわっこプロジェクト」を近隣の小中学校と連携して実施しています。

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