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 地域資源紹介

日本庭園と旧東京医学校本館
日本庭園と旧東京医学校本館

小石川植物園

■指定されている場所: 文京区

小石川植物園は、東京大学の植物学の研究・教育実習施設です。正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園といい、日本でもっとも古い植物園です。面積は約16 万㎡(約4 万9千坪)で、園内にはツバキ園やツツジ園、梅林やカエデ並木、シダ園、針葉樹林や温室、日本庭園(国指定の重要文化財)に加え、研究室や植物標本庫(植物標本は約70 万点)、図書室(植物学関連図書の蔵書は約2万冊)のある本館、薬園保存園、
分類標本園があります。小石川植物園は、国の名勝および史跡に指定されています。
 

小石川植物園の歴史

小石川植物園のある場所は、館林藩の下屋敷で、幼い藩主松平徳松(後の第5 代将軍徳川綱吉)が住んでいました。ここにはかつて白山神社があったため、白山御殿と呼ばれました(当時の御殿の庭園の名残が日本庭園にみられます)。綱吉の治世の4 年目にあたる1684(貞享元)年、綱吉は白金御殿の拡張のために麻布にあった薬園を廃して、白山御殿の一部(1.4 万坪)を新たに薬園にしました。これが小石川御薬園(おやくえん)と呼ばれるようになります。産業の振興に熱心だった第8 代将軍徳川吉宗は、1721(享保6)年、小石川御薬園を白山御殿全域の約4.5 万坪に拡張しました。朝鮮人参をはじめ、中国や韓国、西洋から持ち込まれたさまざまな薬草や植物の栽培が試みられました。その中でも、青木昆陽(こんよう)、いわゆる甘藷(かんしょ)先生が栽培を成功させたサツマイモの話は有名です。

甘藷試作跡の碑甘藷試作跡の碑

サツマイモの種芋はここから日本中に送られ、やがて各地で飢饉から民を救うことになります。その功績を称えて、園内には甘藷試作跡の碑が建てられています。1722(享保7)年、町奉行の大岡忠相は、極貧の病人を救済する機関として園内に小石川養生所を開設しました。1868(明治元)年、明治維新によって東京府に移管され、「大病院附属御薬園」と改称しました。

旧養生所の井戸 旧養生所の井戸

翌年には大学東校の管轄となり、「医学校薬園」と改称されました。1875 年(明治 8)年、文部省の所轄となり「教育博物館附属・小石川植物園」という名称となります。1877(明治10)年、東京大学が設立されると、東京大学の所轄となりました。その後も何度か名称は変更され、「東京大学附属植物園」「東京帝国大学理科大学付属植物園」「東京大学理学部附属植物園」などを経て、1998 年 (平成10)年、東京大学大学院理学系研究科附属植物園となりました。ちなみに、現在も園内には、小石川養生所で使われた水質が良い井戸が残っており、1923(大正12)年の関東大震災の際には、避難民への飲料水として活用されました。

 

 

園内の記念樹

精子発見の大イチョウ 精子発見の大イチョウ

園内には、数多くの由緒ある植物や遺構が今も残されています。1896(明治29)年、植物学者平瀬作五郎は園内の大イチョウを研究し、イチョウの精子を発見しました。この世界的な発見の手がかりとなった「精子発見のイチョウ」の木の下には、1956(昭和31)年に、精子発見60 周年記念碑が建てられました。

ニュートンのリンゴ ニュートンのリンゴ

イギリスの物理学者ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したというエピソードがよく知られています。 ウールソープ村のニュートンの生家のリンゴの木は、接ぎ木によって各国の科学施設に分譲されました。小石川植物園にも2代目から接ぎ木された孫木のニュートンのリンゴが植えられています。ニュートンのリンゴに隣接してメンデルのブドウは、遺伝学の父・メンデルゆかりのものです。チェコのブルノーの修道院で修道院長を務めるかたわら、エンドウマメの遺伝実験のみならずブドウなどの果樹の品種改良をしていました。

メンデルのブドウ メンデルのブドウ

メンデルのブドウは、旧実験園に 残っていたブドウを譲り受けた分株を育てたものです。実は、その後、チェコの旧実験園のブドウは枯死したため、小石川植物園からの苗木を里帰りさせました。

画像提供:東京大学大学院理学系研究科附属植物園

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