このページの本文へ移動

TOKYOイチオシナビ 見つけて活かす東京の地域資源

文字サイズ

 地域資源紹介

両国国技館
撮影協力 公益財団法人日本相撲協会

両国国技館

■指定されている場所:墨田区

「両国国技館」は、両国にある大相撲の興行が行われる施設で、正式名称は「国技館」といいます。先代の蔵前国技館に対して「新国技館」とも呼ばれます。JR両国駅の北にあり、敷地面積は約18,500㎡で、旧国鉄のハイウェイバス駐泊場(旧両国貨物駅跡地)に建てられました。ここは江戸時代には、幕府の御米蔵(おこめぐら)、すなわち幕府が天領から集めた年貢米や買い上げ米などを保管する蔵があった場所です(対岸の「蔵前」という地名の由来にもなっています)。

相撲のはじまり

両国国技館
野見宿禰神社

『古事記』には、出雲国の伊那佐(いなさ)において、「建御雷神(たけみかずちのかみ)」と大国主の子「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が力くらべをしたことが書かれています。建御雷神が勝ったため大国主は葦原中国(あしはらのなかつくに)を譲りました。『日本書紀』には、垂仁天皇の前で行われた「野見宿禰(のみのすくね)」「當麻蹶速(たいまのけはや)」との天覧相撲が記されています。宿禰が勝利し、「相撲の祖」と言われます。国技館のエントランスホールの巨大な陶板画には、建御雷神と建御名方神の勝負、および野見宿禰と當麻蹶速の勝負が描かれています。また、両国国技館から700m東の場所に「野見宿禰神社」も建っています。


相撲の歴史

奈良時代から平安時代にかけて、「相撲節会(すもうのせちえ)」という天覧相撲が毎年七夕祭りに開かれました。それまでは、試合中に殴ることも蹴ることも許されていましたが、相撲節会では禁じられました。鎌倉時代以降は、武士の鍛錬の一貫として相撲が盛んに行われました。国技館のエントランスホールの陶板画には、「相撲節会」や織田信長の上覧相撲の様子も描かれています。江戸時代に入ると、相撲は武士のたしなみから、庶民が見物する娯楽へと変わっていきます。相撲を職業とする力士たちは大名のお抱えとなり、寺社の建立や修繕費を集めるための「勧進相撲(かんじんずもう)」が各地で開催されました。力士を描いた浮世絵が流行しました。国技館に併設されている「相撲博物館」には、力士たちの浮世絵の他、相撲に関する資料が多数展示されています。


初代国技館の歴史

両国国技館
初代国技館

江戸時代、相撲のためだけの専用の建物はなく勧進相撲は深川八幡宮(富岡八幡宮)や蔵前八幡宮、両国の回向院の境内で行われました。1909(明治42)年、両国回向院の境内の一角にはじめて相撲専用の「国技館」が誕生し、天気に左右されることなく試合を楽しむことができるようになりました。初代国技館は、約1万3千人を収容できる日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物で、その形から「大鉄傘(だいてっさん)」の異名を持ちました。設計は東京駅を手がけた明治を代表する建築家・辰野金吾(たつのきんご)と弟子の葛西萬司(かさいまんじ)です。1917(大正6)年、初代国技館は失火から全焼しました。1920(大正9)年に亜鉛張りの屋根で再建されるも、1923(大正12)年、関東大震災で焼け落ちます。しかし、大鉄傘が焼け残ったため、修復し翌年には使用可能となりましたが、第二次世界大戦の空襲でまたも焼けてしまいます。戦後は進駐軍に接収され、接収解除後には日大講堂となりました。1983(昭和58)年に解体され、跡地には複合ビル施設「両国シティコア」が建設されました(「劇場シアターΧ」がテナントに入っています)。進駐軍に国技館を接収されたため、代わりの場所として1950(昭和25)年、蔵前に仮設の国技館を建設しました。1954(昭和29)年に、仮設ではない蔵前国技館が完成します。その30年後、建物の老朽化などのため1984(昭和59)年に閉館となり、新しく完成した両国国技館に道を譲りました。蔵前国技館の跡地は現在、東京都下水道局北部下水道事務所になっています。


建物の構造

両国国技館
撮影協力 公益財団法人日本相撲協会

1984(昭和59)年に完成した国技館は、地上2階・地下1階の鉄筋コンクリート造・和風建築で、延べ面積が35,700㎡もあります。収容人数は約1万1千人。設計は杉山隆事務所および鹿島建設・建築設計本部です。大屋根は四角形の隅を落とした隅切り方形で、1辺の大きさは94m、重さは3000トン以上もあり、どっしりとした安定感を見る人に与えます。その上には、王冠のような黄金色の頭飾りが載っています。この建物には大屋根を活かした雨水利用システムが完備されており、屋根に降る雨水は集められて地下に貯蔵され、雑用水として使用されています。


土俵と吊り屋根

土俵は、大相撲本場所の場合、高さが66cm、 1辺が670cmの正方形に土を盛り、内径の直径が455cmの円になるように「勝負俵」を並べます。土俵の上には、6種類、66俵が使われます。勝負俵の外側には「蛇の目」と呼ばれる約25cmの幅で砂を厚めに敷いた部分があり、砂に残る足跡を見てきわどい勝負の判定がしやすくなります。土俵の周りには、かつては四隅に柱が立っていましたが、1952(昭和27)年以降、「吊り屋根」となり、柱の代わりに青・赤・白・黒の四つの房(ふさ)が下げられるようになりました。屋根の形式は、伊勢神宮と同じ神明(しんめい)造りです。


座席の種類

国技館の客席はすり鉢状になっていて、どの席からでも土俵が見やすい配置になっています。1階の土俵の周りの「溜席(たまりせき)」は、通称「砂かぶり」といいます(食事や写真撮影はできません)。その外側には4人定員のマス席やボックス席があります。2階はイス席が中心で最後列には当日のみ販売される自由席があります。車椅子用の特別席も用意されています。2階席の上には、32枚の優勝額が掲げられています。座席からは小さく見えますが、大きさは畳5枚分もあります。


相撲以外の利用

国技館は土俵が電動式で上下できるので、相撲以外にもプロレスやボクシングの試合会場として、またコンサート・ライブの会場として、また「アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト」(高専ロボコン)の全国大会としても使用されています。毎年2月には、「国技館5000人の第九コンサート」が行われています。国技館は災害時の防災拠点になっており、非常時には約3万人が3日間使用できる生活用品と、非常食が備蓄されています。

一覧はこちら

ページ
トップへ
戻る