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 地域資源紹介

ニット製品

ニット製品

■指定されている場所:台東区、江東区、葛飾区、墨田区、荒川区、江戸川区

ニット製品、つまり編み物の歴史は古く、シリアの都市ドゥラでは紀元3世紀のニットの断片が発見されています。中世のヨーロッパではニット製造は重要な産業の一つとなり、編み物職人によるギルドまで存在しました。

日本にニット製品が伝わったのは、南蛮貿易が始まった江戸時代で、ニット製品は「メリヤス」と呼ばれました。これは、ポルトガル語のmeias メイアスか、スペイン語のmedias メディアスがなまったものです。このmeias や medias は共に「靴下」という意味ですが、ニット製品全般がこの名として使われました。漢字では、当初は「女利夜須」や「女利安」と書かれましたが、やがて「莫大小」という当て字が広まりました。「莫」の字は「無い」という意味で、ニット製品が伸び縮みするため、「大小なく」体にフィットすることを表していました。
現存する日本のニット製品としては、第2代水戸藩主・水戸光圀(水戸黄門)の遺品の中から見出された7足のメリヤスの靴下があります。そのうちの一つは何度もはいて洗濯した跡があり、光圀が愛用していたことが明らかになっています。
幕末には、西洋式の軍制が導入されると、手袋や靴下の需要が高まりました。それに伴い、困窮した下級武士や浪人によって手編みの内職がさかんに行われるようになりました。

イギリスでは、1589年にウィリアム・リーが「靴下編み機」を発明し、機械によるニット製造がはじまりました。日本に機械の編み機が導入されたのは明治初期のことです。旧佐倉藩士の西村勝三は、製靴業の先駆者であり「明治の工業の父」とも称される人物ですが、靴下の工業化にも大きく寄与しました。勝三の弟・綾部平四郎は、明治3年に横浜の米国一番館で、商館の館員も使い方が分からなかった機械が置かれているのを見て関心を示し、カタログを翻訳してメリヤスの機械であることを知ります。早速、平四郎は機械を購入し、苦心の末にメリヤスの製造ができるようになりました。兄の勝三は、明治5年に、国内初のメリヤス靴下工場を築地に建設し、弟に工場の監督を任せました。明治9年には、向島須崎町へ工場を移し、メリヤスの国内大量生産が始まりました。本所一帯では、大名下屋敷跡がメリヤス工場へと変わり、武士たちが本格的にメリヤス作りに取り組むようになりました。「士族授産」の一貫として、メリヤス工業以外にも、紡績やマッチ、石鹸、セメント、ガラスといった新しい産業が本所付近では試みられました。

日清戦争、日露戦争の勃発によって兵士が身に付ける靴や靴下の需要が高まり、メリヤス産業は活況を呈しました。やがて靴下だけでなく、肌着、股引、手袋といった日用品が作られました。当初は国内用でしたが、清国、朝鮮、インド、シンガポールなどの東南アジア諸国に輸出するまでに生産力を伸ばしました。
第一次世界大戦の頃、ヨーロッパ諸国が生産低下している間に、日本は生産額を倍増させたため、メリヤスの中小工場がまだ手工業の段階だったものが、機械による工場制に移行することができました。そして昭和初期には、まず男性の服装が和服から洋服に代わり、それに伴ってメリヤス製の下着の需要が急増し、業界には追い風となりました。
しかし、第二次世界大戦になると、繊維不足が深刻になり、衣類は配給制になりました。そして空襲による被害で、東京にあるメリヤス工場の機械は50%が被害を受けました。
戦後、国内における衣類の必要はもとより、海外への輸出産業として好景気だったため、メリヤス工場の復興は、他の業種以上に素早く進みました。昭和30年代は、世の中の景気も回復し、メリヤス製品は作れば作るだけ売れるという時代となります。その頃、大型量販店が出現し、従来の流通形態に変化が生じました。
ナイロン、ポリエステルなどの価格が安く耐久性に優れた合成繊維は、ニット製品の素材に変革をもたらしました。
1970年代に入ると、日米繊維協定締結や、変動相場制への移行、第一次石油ショックなどが続き、いわゆるNIESとよばれるシンガポール,香港,台湾,韓国などのアジアの新興国の追い上げによって輸出量が激減し、日本への輸入量も増えました。
流通に関して言えば、江戸時代から、呉服の販売が盛んであった日本橋界隈に、ニット関連の問屋が集中しています。

近年では、「メリヤス」という言葉はあまり使われなくなり、「ニット」という言葉が広く用いられています。現在、メリヤスという言葉を使う場合でも、肌着や靴下を指すことが多く、セーター、カーディガン、ポロシャツといった製品はニットと呼ばれます。
ニット工場は、時代とともにその中心が移動しています。ニット工場は、墨田区に数多く存在していましたが、技術を習得し独立した人がさらに東の江戸川区へ工場を立ち上げました。

ニット製品

やがて東京は土地が高い、土地が狭い、人件費が高いなどの理由で、さらに地方に、ないしは海外に生産拠点を移動させています。東京に残っている工場でも、後継者問題で頭を悩ませています。東京のニット工場の中には、「競技用ウエア」や「猫の術後着」といった、付加価値が高いものを製造しているケースが見られます。今後、ますます、「日本製」の品質の高さや、ものづくりへのこだわり、ブランドの個性を生かしたニット製品造りが期待されています。

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